学校生活

はつとんweekly⑤(校長室より) 型

日本の「道」の文化の多くは型によって支えられている。

武道、茶道、華道などの流派は、型の違いによってすみ分けがなされている。型は、伝承をしていくために工夫されたもので、型を学べばどのような人も、その「道」の入り口までは連れて行ってもらえる。どのような人もというところが大切で、全ての人に「道」は開かれているということである。そして、型の中に秘められている意味や思いなどに気が付ける人は、型を崩すことの在り方や、型から離れていくことの深さにたどり着くことができる。型を守りつつ型から離れるという矛盾のようなことが起こり、人はその「道」において自由になる。守破離の世界である。

 先日、バレエの発表会を4時間にわたって観た。

前半は、バレエ独特の身体の使い方を必死で再現しようとしている小さな子どもたちの踊りで、それはまるで機械仕掛けの人形のようで、そのこと自体がかわいい。

少し、経験を積むと、跳んだり、回転したり、停まったりすることなど、身体能力が大きく影響しそうなところに力を入れていることがよくわかる。できるか、できないかの世界でスポーツのような感じを受ける。

それらのことから抜け出した人になると、同じようにバレエ独特の身体の使い方をしているはずなのに、動きから喜びや悲しみなどの感情が見えて、常人にはできないその動きがまるで必然のような気持になる。それはまさに踊りであり、表現であり、観客との対話である。

日本文化の中だけでなく、型に相当するものはもちろんたくさんある。

物事を理解したり、身につけたりしていくときの方法として優れているからなのだと思う。しかし、最近はこの型の文化は、受動的で、忍耐が必要で、時間がかかるため避けられだしている。アクティブであること、楽しくできること、早く習得できることなどを良しとする風潮が社会全体にある。時代の流れが速く、悠長に型などに時間をかけていられないということなのかもしれない。深さより、広さということであろうか。

柳生宗矩が書いた新陰流の秘伝の書『兵法家伝書』に、「道は秘するにあらず。秘するは、しらせむが為也。」という言葉がある。本質を見誤らないための道であり、型であるのだと思う。

混沌とした、予測不能な社会であるからこそ、教育において見つめなおすべき側面だと思う。

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