学校生活

はつとんweekly⑪ 指導

習い事によって指導方法は様々ですが、指導する人のものの考え方は大きく影響します。例えば、ピアノのレッスンで弾き違いや指の使い方が悪いと手の甲をピシャと叩く先生、バレエで回転をするのに軸が定まっていないと脚をこれまたピシャと叩くという先生、演劇などで上手くセリフが出ない時の厳しい声を出す先生など、教育の世界では考えられない指導は今でも残っています。

そこには、指導者の熱い思いや、その習い事の上達のための最短の道筋などが見えていて、生徒を憎くてそういった指導をしているわけではないはずです。また、そのことを前提に習いに来ているということも、そのような指導が残っている要因だと思います。ここでは、そのことの良し悪しを問いたいわけではありません。

一方で、武道の型稽古で初心者から熟練のものまで、何度も何度も同じ稽古をする場面があります。そこでは、武道という戦いを元に出来上がったものであるにもかかわらず、少しでも良いところを見つけて褒めて、良いところを増やしていくという、なんとなく武道らしいと感じない指導方法をとっているのです。

そして、少しずつ上達に導き、ある時から自分自身でこのままでは成長が停滞すると思うようになるまで続けます。その後は、自ら工夫を始めます。その工夫が型稽古を磨き、型が身に着くと、同じ型を稽古していても型を打っているということから離れた自由な動きになっていきます。守破離の世界です。

しかし、これはこれで落とし穴があります。自分はできているという勘違いに陥り、現状維持から少しずつ衰退に向かう可能性です。それを回避するために、稽古相手を変えたり、出稽古に行ったりして、絶えず自分を見つめなおす必要があります。

司馬遼太郎の講演集の中に、吉田松陰の話が書かれていました。松陰は門下に集まる塾生を「おまえはこれこれの点で天下第一だ」などのように褒めていたそうです。長所を見つけて褒める。長所はどんな人も持っているけれど、指導者は「ここを直した方がよい。」と克服すべき点を指摘する場合が多くて、長所を教えることは案外少ないものです。指導者が優秀であればあるほど、人の欠点が目に付き、長所を見ようとしない場合が多いからです。

司馬は、この講演の中で心が優しくなければ相手の長所はわからないと言っています。心を優しくするためには、己をなくすことがいちばんで、競争相手であることを押し殺し、相手を優しく眺めてみれば、あのことについては自分がおよばないというふうにわかってくるといいます。そして、他の人間に対して影響を与えることのできる人は、とびっきり優しい心を持っている人だと話しています。松陰はとびっきり優しかった。松陰の元から巣立った塾生たちが幕末の日本を大きく動かしたことを考えると、指導者としての松陰のすごさを感じます。

教育ではどうでしょうか。暴言はダメです。もちろん、体罰は言語道断です。しかし、ただ優しいだけでは育つものも育たないということが起こる可能性もあります。守破離の離が訪れるまで待ち続ける時間を、教育では持つことができない場合も多いです。それでも、優しくあることで、長所を見つけることで人を変化させていくことはできる気がします。司馬は「とびっきり優しい心」と言っています。そのためには、「己をなくすこと」と言っています。

己をなくすことができる人とはどういう人でしょうか。自分を見つめることができるほどに考えが深く、相手を受け入れることができるほどに視野が広く、どんなに難しく苦しいことも我慢して咀嚼できるほどに忍耐強く学ぶことができる人だと思います。そうでないと、「己をなくす」などということは、そう簡単にできることではないと思います。

初富は、松陰のように指導できる教師集団でありたいと思います。それはとても難しいことだとも思いますが、そうありたいと思いながら教育に勤しむことで、教師集団としての質の向上に努めたいと思っています。

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